労働基準監督署は怖い場所ではありません
労働基準監督署……この言葉を口にするだけで、会社との闘いが火ぶたを切った時代がありました。労働者が会社に対して宣戦布告をし、クビを覚悟で揉めごとへ飛び込む意味のこもった六文字熟語だった頃の話ですが、労働基準監督署、略して【労基】は、あくまでも厚生労働省の庁舎です。あの頃はまだ、労働省と厚生省に省が分かれていました。
今でも宣戦布告のように受けとられることが多い労基です。職場の仲間の職人、身軽な大工さんリュウ君(仮名)を、仕事中の怪我の危機から守ろうとした事務部のあきこさん(仮名)も、もう覚悟を決めてリュウ君を連れ、とうとう労基を訪問しました。日雇い労働者の、弱くてかわいそうな仕組みに甘んじた社長が、労働中の怪我人のための保険を使うことをいやがって、リュウ君を急に解雇(クビ)にしたからでした。保険を使うとその後の保険料が上がりますが、もともとが莫大な出費を緩和するための保険です。そんな出来事のための保険のはずなのです。自動車事故を起こしてしまったときと同じような仕組みです。その日の朝いちばんに、あきこさんは事務所へ出勤し、貼り紙を見て驚愕し、怒りが爆発したのでした。
『リュウ君を解雇します。理由:仕事中のふざけ……○月○日……』
プロの大工さんが、古い建物の解体作業で、屋根の上からわざとふざけて落ちますか……。怪我をしてまで落ちたりしませんよね。奥歯が欠けて飛び、まだ口の中には縫った糸の残るリュウ君です。日頃から体重の軽さを有効に利用して、高い場所の作業を買って出る性分のリュウ君は、地元の消防団員でもある好青年です。メタボなおじさん仲間よりも自分が屋根の上を選んだリュウ君の足元で、屋根の老朽化した材木が破壊を起こしたという、運の悪い出来事でした。もっと身体が重たい職人さんならば、致命的な大怪我だったかも知れません。
あきこさんはもう、自分も仕事をなくす覚悟を決めました。年齢分のスキルで、きっと次の仕事が早めにみつかると信じて、まだ若い大工さんの生活のピンチのほうを、先になんとかすることにしたのです。ついでにリュウ君以外の職人さんの今後のことも、行政の力でもって、もっと安心と安定のある条件に変えてから、ここを去ると決めました。
あきこさんは貼り紙の証拠の写真を携帯電話で撮影し、貼り紙そのもののコピーをとってから、ことのいきさつのわかる記録や名簿も持ち、また自分の車のエンジンをかけました。リュウ君を途中で乗せて、そのまま労働基準監督署へ訪庁(庁舎への訪問)をしたのです。過去にも似たような出来事に遭遇していたあきこさんは、ハローワークを経由してから次に、労基で相談することが、初めてではありませんでした。
労働基準監督署には、平日ですが相談者がたくさん来ていました。労働の悩みの重い人が多いということです。雇われている側だけではなく、雇っている側の人もいます。両方が揉めてしまう前に、解決の方法をいっしょに探してくれる役目を、労基が行っているのです。解雇(クビ)になって困惑している人もいれば、解雇になって当然のことをやったと話しているような、困ったちゃんの声も聞こえましたが、個人情報への配慮から、各ブースを囲うように間仕切りがあり、人の顔は見えません。高ぶって声が大きな人の話す言葉だけなら、聞きとることができる程度に、相談者が守られています。
順番がきて、あきこさんとリュウ君もブースに入りました。出来事に遭遇して怪我をした本人の、リュウ君自身の口から、なるべく相談員の方に話をさせ、あきこさんは会社の事情を客観的に話す役目になりました。おおむね証拠として必要なコピーや書類は、あきこさんの手元にそろっていました。リュウ君はポカンとそれを眺めながら、質問に対して事実を答えてゆきました。
雇用主が労働者を即日解雇、つまりその場で急にクビにすることは、法律では基本的にできません。やむを得ずその日に解雇する際には、解雇予告手当というかたちで、一定の日数分の給与のみなし……見込み金額に該当する手当を、労働者に対して支払う必要があります。それを支払わない場合は、その日ではなくもう何日か、きちんと仕事を与えて給与を支払い、退職へと促す決まりごとになっています。その前に、その解雇の判断が妥当か否かについても、労基の相談員さんが法律に基づいて考えてくれます。解雇に不服のある場合に、まず解雇の取り消しをさせる方法もあるのです。リュウ君は、解雇予告手当を請求するほうを選びました。あきこさんもそれがいいと思いました。同じことを何度も誰かにされるより、労基に記録を残す解決法をとっておいて、同じ目にあう労働者がでることを阻止しておいてから、リュウ君の次の仕事を素早く探すほうが、少しでも労働社会に光がさすと思いました。
さて、とんでもない理由で解雇になった件についての相談は、ひと通りの区切りがつきました。次に欠けて飛んだ奥歯……労働による怪我の件の相談は、同じ労基の中でも担当窓口が違います。こう書くと、庁舎の中でたらいまわしのイメージもわきますが、そうではなく、さきほどの解雇の件との連動性をきちんと保ってくれます。相談員さんが、次の相談員さんへと、おおまかな事情を説明してバトンタッチをしてから、怪我の治療代の負担などの相談へと、移行するのです。ここでやっと、念のために医師にお願いしていた診断書の出番です。
急に解雇になって、日当が出ずに生活の困った内容の解決策と、その仕事中にした怪我なのに治療代ごと放り出された内容の解決策と、これらをセットで把握したリュウ君と、連れてきたあきこさんは、今後のお互いの新しい仕事の明るい話を想像して描きながら、やっとリラックスして雑談しつつ、車で帰ってきたのでした。
労働基準監督署へ急に訪問するだなんて、なんだか大ごとを起こすようで決心のしにくいことですが、相談の段階で秘密にしておいてもらう選択肢があることを、忘れないで冷静に話をしましょう。勝手に会社へお叱りが行ったりはしません。そこは安心して、あくまでも揉め事になる前に手を打つための行動であることを大切に、素直に相談を行うことが大事です。労働の法律の専門用語を事前に勉強しなくても、相談員さんがきちんと解説しながら、話し合いを進めてくれます。