現場加入の労災保険を使えない立場の人もいます

   

 建設業など、現場に集まる労働者の方々が、いろいろな下請会社から仕事に来るような場合には、労災保険は現場単位でまるごと加入されていることが多いです。これは、人が毎日入れ替わり立ち替わりで作業をしに来ていても、就労中の怪我などの発生時に、元請会社が加入している労災保険の制度で、怪我をしてしまった労働者が治療を受けて完治するまで守られる仕組みです。が……あくまでも原則としての話です。

 ひとりで事務部になってしまった立場のあきこさん(仮名)は、ある日、若い大工さんが屋根から落ちたと聞いて仰天しました。屋根の上で作業をしていた、いちばん体重の軽いリュウ君(仮名)が、屋根が抜けてズドンと落ちたというのです。最低でも平屋建て(1階建て)の建物でさえ、屋根の高さからズドンをして、怪我のない奇跡は起きにくいものです。あきこさんはリュウ君の携帯電話に、
『会社へ戻ったら私のいる事務所まで、無事な姿を見せに寄ってね……』
とメッセージを残しました。同じ現場の仲間も、いちおうリュウ君本人も、無事だとは言ったのですが、あきこさんはそれを信用しきれませんでした。
『まさか、怪我のことを口封じされているのでは……』
と、懸念したのです。

 案の定、リュウ君は見た目は無事でしたが、奥歯が飛んだと言いました。奥歯にそれだけの衝撃がかかったということです。歯のひと粒が骨折したとも言えるでしょう。でも、それが元請さんにバレてしまったら、下請の仕事がもうもらえないかも知れないと、どうやらこちら側の社長が口封じをしたとのことで、あきこさんの懸念は的中でした。
 奥歯のひと粒とはいえ、頭蓋骨の一部です。欠けて飛んだまま放置はできません。歯科医院へすぐに行かないといけませんが……
 あきこさんはインターネットで急いで検索しました。
『労災認定のできるお医者さんの歯医者さんが……あったわよ。すぐ近所だわ!!!!』
と、まだ若葉マークの軽自動車で、あきこさんはリュウ君をまず、その歯科医院へ連れて行きました。労災手続きのことは後から考えることにして、まずはリュウ君の奥歯の治療の処置を、急いで急いで、その日になんとか応急処置ができました。

 社長の気持ちも分からないことはありません。でも、人の身体に何かあったのです。
 元請会社には伏せたとしても最悪、社長が自分の財布から、当面のリュウ君に対して、出来る限りのことをすべきでしょう。あきこさんは、どうしたものかと、保険の関連の書類の棚を片っ端から探してみました。リュウ君が自分のお金で歯科医院へ通院など、できるお給料ではないことを、あきこさんは帳簿で知っていました。

 よい書類を見つけたあきこさんは、その保険会社の約款を、別の棚から引っぱり出しました。民間の労災保険のようなもの、自動車の任意保険に似たような仕組みの保険とでも言いましょうか。契約した書類の片方がありました。雇用している労働者が怪我をした場合の任意保険のようなものに、社長は加入していたのです。きちんとした労災には加入せず、それを労災だと思い込んでいたという、社会勉強の少し足りない人だったのでした。この保険を使えば、リュウ君の治療費は保険から出ます。労災認定のできるお医者さんをさがして行って正解でした。使わないかも知れないけれどと、あきこさんがリュウ君の受診中に診断書をお願いしておいたのでした。
 ただ、その保険すら使わない主義の社長だったとしたら、これは小さな闘いになるかも知れないと、あきこさんは数回分のリュウ君の治療費を、なんとか小口現金から工面しては、なんちゃってのような勘定科目をあてがって『福利厚生費』にし、振替伝票を切りました。保険を使えたならば、これは後から修正の仕訳ができることです。それ用の伝票をまた書き残すだけですから……。

『明日、この保険会社の担当者に、事務所まできてもらいましょう……』
と、あきこさんはリュウ君を家まで送り、自分も帰宅の途に着きました。こんな急な用事で、自分の車を救急車の代わりにしてまで、損なことをする……と言われもしましたが、あきこさんはそれでよかったのです。こんな世の中の労働者の抱える苦痛の事例に、遭遇して解決策を立て、実行してみて成功事例をつくってゆくことを、あきこさんは重大な任務だと思っていました。同じような出来事がまた起こっても、これのまねをしてくれる人さえいたら、労働者がいつかまた一人、救われるからです。事例や前例があるかないかでは、解決の段取りが大違いなのです。同業者がまねをしてくれても大歓迎です。就労中の怪我でなおかつ、業務上の事情で負った怪我は、最終的には雇用主が責任を持って可能な限りのことを行うのが、本当は正当な人の雇い方なのです。

 仕事で怪我をしちゃったならば、その時は平気でも、その日のうちにお医者さんから診断してもらいましょう。そして、一時的な自己負担(3,000 円ほど)で診断書を発行してもらっておきましょう。そして、そのお医者さんが労災認定のできる医師であると、もっと理想です。これのできるお医者さんを、産業医といいます。大規模な会社に勤務されている方なら、どこかで自社お抱えの産業医がいることを知らされているはずですし、商店規模の事業所に勤務されている方ならば、駆け込んだお医者さんに必ず、
『仕事中に怪我をしまして……』
と口頭で念押ししましょう。この『仕事中に』が大事な鍵です。医師の診断書に、この言葉があるかないかで、治療費の負担をどちらが負うのかが、反転するのです。